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舟越桂 私の中のスフィンクス(求龍堂)

2015年6月、兵庫県立美術館で封切られた展覧会「舟越桂 私の中のスフィンクス」は、群馬県立館林美術館や三重県立美術館を経て、2016年6月の新潟市美術館まで、1年をかけて全国を巡回します。その巡回展の公式図録兼書籍となるのが、こちらの本です。

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80年代に作られた着衣の人物像にはじまり、90年代以降の“山”をイメージする人物像や双頭の人物像、そして2004年に突如現れた雌雄同体の生物「スフィンクス」。彫刻家舟越桂はこれらの“異形”の人物像を通じて、人間本来の姿を見つめ直し、その存在を問い続けてきました。彫刻作品を見る私たち“鑑賞者”が実は“見られる側”であり、純粋無垢な存在として作り出された「スフィンクス」は“俗”を見詰める聖なる存在として、人間に対する“鑑賞者”であると言えます。

制作年代や様相に関係することなく、舟越作品に共通する人物像の繊細な表情は、周囲の空間そのものを静寂で包み込みかのような瞑想的な雰囲気を醸し出します。大理石の玉眼は、“人間の本性”や“世界の理”を見透かすかのように遥か虚空を見つめています。舟越作品の彫刻と向き合う時、私たち個人は“ひとりの人間”として存在し、その静かな時間の中で“人間としての存在”をあらためて感じることが可能となるでしょう。

また、舟越作品の心髄として“ドローイング”の存在があげられます。通常、作品に至るまでの過程としての存在でしかないドローイングは、絵画の中での地位は低く、重要視されない傾向にあります。しかし、舟越桂の描くドローイングは作品の一部として重要な位置付けをすることができます。一体の彫刻制作に取りかかる前に、アイディアの描き出しからはじめ、最終的には等身のドローイングを仕上げるという姿勢や試行錯誤は、彫刻作りの軌跡として残され、移り変わる作品の変遷の記録として補完されます。ドローイングのサイズや質に関わらず一枚一枚にサインと日付を入れることからも、作家自身がいかにドローイングに力を入れ、重点を置いているかを垣間見ることができます。

これまで開催されてきた全国の舟越桂展においても立体である彫刻と平面であるドローイングが、定められた関係性を持って展示されてきました。[「舟越桂 夏の邸宅」(東京都庭園美術館.2008)/「Alternative Humanities~新たなる精神のかたち:ヤン•ファーブル×舟越桂」(金沢21世紀美術館.2010)※どちらの展覧会図録兼書籍もKaNAMミュージアムショップにて販売中]ドローイングも舟越桂の“作品”として、彫刻作品と並列した存在、もしくは時に彫刻作品以上に作家の表現を伝えるものとして存在し、その独特な世界観を紡ぎ出し、人々を魅了してきました。

最後に、本展覧会や書籍には軽井沢ニューアートミュージアムからも《冬の先触れ》(1999)が出品•掲載されています。(p.39に掲載)口を真一文字につぐんだ清閑な顔立ちと、中世の騎士を思わせるブリキの甲冑を肩に当てた様相は凛々しくもあります。無機質なブリキが組み合わせられたことにより、木彫本来の素材である“木”がかつて有機体として生命を宿していたということを思い起こされます。また、人工的かつ機械的な物体がいかに強い存在感を持ち、自然を浸食しているかということを考えさせられるような気さえしてきます。

実際に舟越先生にお伺いしたところ、「冬の訪れを告げる存在である」とのことでした。人間を凌駕する存在である“自然”、そしてその中でも偉大な“山”をテーマに制作を行ってきた90年代から2000年代初頭にかけて多く制作された“冬”や“雪”、“凍った”というキーワードの作品の存在。今度お会いした時には“冬”という季節が、どのような意味を持つのかを是非とも聞いてみたいと思います。きっと不思議な答えを聞かせてくれることでしょう。

これまで2012年、軽井沢ニューアートミュージアムOPEN記念展「軽井沢の風」や、2013年の「六つの個展」に出品した。

主任学芸員 鈴木 一史

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