<作家紹介> 草間彌生

1929年、草間彌生さんは長野県松本市の種苗を扱う商家に生まれます。
幼少より精神的な病によって、花に話しかけられたり、自分の声が犬の声に聞こえたりと、幻想や幻覚に悩まされていました。そんな彼女にとって、絵を描くということはその光景を描くことで驚きや恐怖を鎮める手段であったそうで、幼いころから絵を描くことを習慣としていました。
また、今日、彼女の象徴ともいえる水玉はその幻覚によって世界が水玉模様に見えたという実際に彼女が目で見た世界を表現したのが始まりでした。
実際、幼少期に描かれた多くの絵には斑点のような水玉が描かれており、画面を覆い尽くしていたそうです。

学生時代よりその画才を評価されており、京都市立美術工芸学校にも入学することになります。ただ、精密な描写を教えようとするアカデミックな教えにあきれてしまい、あまり学校にも行かなくなったといいます。
また、この頃までは日本画を中心に描いていましたが、49年以降は日本画を辞め、感情や心情を描く抽象画を制作し始めます。

1952年、地元の松本市第一公民館で初めての個展が開かれました。出展数は270点。
その個展に足を運び、彼女を高く評価したのが信州大学教授の精神科医、西丸四方氏です。西丸氏は学会などで草間さんを大々的に紹介するなどし、彼女が世間や美術評論家に広く知られるキッカケを作りました。
初の個展を開催した後、西丸氏、美術評論家の後押しもあって、東京でも個展を開催。注目を集めていきます。そして、彼らの推薦によって、55年、アメリカ、ニューヨークで行われた第18回国際水彩画ビエンナーレの日本代表に選ばれました。
更に、その展示を見たシアトルの画廊から個展の申し出があり、57年に初の海外の個展が開催されました。

そして、その翌年の58年、パリに代わってアートの中心地となったニューヨークに拠点を移し、本格的にアメリカでの活動が始まります。
新天地に移った彼女は、新たな表現にも取り組みます。黒地をひいた巨大なキャンバスに白い小さな弧をいくつも描いていき2m×4mほどもある画面を埋め尽くして完成した作品が、代表作「無限の網―infinity net」です。無限の空間を表現したこの作品は、幼いころからの自身の病による苦しみや恐怖を解き放つための試みであったと語っています。
現地の評論家からこの作品は称賛され、その後、アメリカでも個展を次々と開催していきます。

また、草間さんは新たな表現として立体作品にも挑戦していきます。イスやテーブル、食器に至るまでを白い布製の突起物を取り付け、覆った作品を発表します。ソフトスカルプチャーと呼ばれる、草間さんの水玉と同じくらい今日でも有名な表現方法です。
この白い突起物は男根を表し、セックスへの嫌悪感や恐怖心を治すために作られたそうです。これは上記の「無限の網」にて、白い弧を描き続けた表現に近い物と言えます。彼女にとって無限や増殖といった言葉は、彼女のルーツと深く関わって恐怖を克服する手段であり、結果として、彼女独自の表現手法の確立といえます。
63年の個展「集合―1000艘のボート・ショー」は特に有名で、3メートル近い手漕ぎボートがソフトスカルプチャーで覆われ、そのボートを写した999枚の写真がその周りの壁に所狭しと張られた作品・展示です。
翌年64年には、大量生産の時代に対する皮肉と、機械が作った食品を食べるという恐怖を大量のマカロニを対象に貼り付けて表現した作品、「マカロニコート」などを発表しました。
更に65年には、部屋の四方を鏡で囲い、床一面をソフトスカルプチャーで敷き詰めたインスタレーションを発表。無限の世界を表現する一つの手法としました。
これらの表現方法は現在でも草間さんが使っている手法であり、60年代にはすでに考案していたということになります。

そして、ベトナム戦争を背景に平和や愛を訴える運動が大きな社会現象となっていた状況下にあって、67年頃から草間さんも独自のパフォーマンス「ハプニング」行っていきます。
その中で有名なのが、裸の男女が踊り戯れる中、その体に水玉を描いていくというパフォーマンスです。これは、生命の原資の一つを意味する水玉を描くことで、人体も自然も原子の一つとなり還元され、あらゆる境界が無くなり、自己が消滅し、宇宙に帰るという新しい表現だったそうです。
しかし、この考えを日本では理解されず、表面的な見方のみの誤った認識で伝えられことで、草間さんは帰国後大きくバッシングを受けてしまいます。

1973年、恋人、父親と相次いで愛する人を無くし、元々の精神的な病も重なって草間さんは心身共に体調を崩してしまい、治療のため帰国します。
病院に入退院を繰り返す、安定しない時期が続き、更に上記のハプニングに対する日本での批判によって、帰国後の活動はそれほど大きく取り上げられることはなく、少しずつ忘れ去られた存在となっていきます。

ただ、そんな時期にも創作活動を止めることはなく、活動は執筆活動にも広がり、78年に処女作となる「マンハッタン自殺未遂常習犯」を発表します。その後、99年までに出版された小説は14冊にもおよび、その中の「クリストファー男娼窟」では、文学誌:野生時代において新人文学賞を受賞し、執筆活動においてもその才能を高く評価されます。
また、帰国後に力を入れて制作するようになったのが版画作品です。水玉に並ぶ、彼女の代名詞である南瓜などの具象モチーフの作品もこの頃から多く描かれるようになります。

絵画の制作に置いて、不遇の時代を長く過ごしてきた草間さんでしたが、転機は89年に訪れます。ニューヨークに新しく設立された国際現代美術センターのオープニング展として「草間彌生回顧展」が開かれました。更に、調査によって「無限の網」が戦後美術史においての空白を埋める貴重な表現方法であることが実証され、作家としての評価が改められることとなります。

これをキッカケに93年の国際美術展ベネチアビエンナーレの日本代表作家に選ばれ、この美術展で初の日本人女性作家として個展が開かれました。
そして、98年にはロサンゼルス、ニューヨーク、東京、と個展が巡回し、再びアートの最前線へと返り咲くこととなったのです。

近年は、国内では、森美術館での個展「クサマトリックス」や、松本市美術館で開催された開館10周年記念展「永遠の永遠の永遠」など、個展、巡回展が数多く開催されています。
また、海外でも2011年から2012年にかけて大規模な欧米巡回気個展「YAYOI KUSAMA」が国立王妃芸術センター、ポンピドゥーセンター、テートモダン、ホイットニー美術館で開催され、大きな話題となりました。
当館でも2013年に「わたし超スキッ!!草間彌生―世界を感動させた自己愛―」を開催し、
多くのお客様にご来館ただきました。

現在も、国内外問わず企画展が開催され、80歳を過ぎてもなお活動を続けています。