展示室4では鮮やかな色彩がひときわ目をひく綿布による作品を紹介します。
前川には「色彩」を封じた時期がありました。所属していた「具体美術協会」(具体)が解散した1972年以降のことです。75年頃にはドンゴロスにアクリル絵の具を吹き付ける試みをしていますが、その後、80年代前半にかけては「絵の具を抑えどこまで表現できるか」と自らの原点を見つめ直し、「麻布」(Hemp cloth)による独自の表現を確立します*1 。この頃、並行して麻布と「綿布」を組み合わせて象嵌する*2作品を作り始めました。77年頃になると麻布にも彩色するようになりますが、麻布と比べて綿布は絵の具の発色が良い点に前川は着目したのでしょう。90年代になると綿布を主体にした色鮮やかな作品を数多く作るようになりました。それは前川の第三の作風とも呼べる新しい表現でした。
綿布による作品《Work (No. 171205)》(2009年)を見てみましょう。縦60.0cm、横240.0cmの横長な画面の下部にまるで水平線のような藍色の帯が横たわっています。画面の左右両端からは何本ものピンタック*3 が細く縫い付けられており、緩やかに波打って藍色の帯に接する一点に集中しています。ピンタック部分の色合いは青、青緑、水色へと変化し、まるで海上に漂う大気のようです。画面上部にはまぶしいほどの白色を地に美しい虹色のグラデーションが施されています。
これまでは主にポーリング*4 などで彩色してきた前川ですが、綿布では絵の具を噴霧して滑らかな混色効果を生み出すエアブラシを多用して色の階調を生み出しています。さらに特徴的なのは絵の具の吹き付け方です。例えば、前川は水色をつくる時も水色を吹き付けるのではなく、白色を画面上から下方向に、青色を下から上に向けて吹き付け、それぞれの色が重なりあって水色に見えるようにしています。こうすると空気をはらんだようなふわりとした色合いになるのです。加えて、そこに緑や藍などの色を重ねて、よりいっそう微妙な色彩のニュアンスを作り出しています。エアブラシによる彩色はピンタックの線の表情にも効果を与えています。先述した白色と青色の例で言えば、凸状のピンタックの線を境に線の上部分には白色の絵の具が溜まってハイライトとなり、線の下には青色の絵の具が溜まって線の影をより濃く際立たせて画面全体を引き締めているのです。綿布の柔らかな質感はピンタックで細く緩やかな曲線を描くことを可能にし、その線描と色合いがあいまって観る者に優美な印象を与えています。このシリーズは公共の場でも好まれ、2008年にはホテルリソルトリニティ札幌のロビーやホールのほか、全ての客室に作品が設置されました。
綿布シリーズのもう一つの特徴は鑑賞者の想像力を喚起する点です。先にWork (No. 171205)について「海上に漂う大気のよう」と形容しましたが、展覧会場で筆者が出会った少女はこの作品の前でこんな話をしてくれました。
「私たちが立っている絵の前が“今”なの。ここ(ピンタックの線が集まっている点)は未来。未来は虹色に包まれているの。でも、私はまだここ(未来)に行けてないんだ。まだ青い中にいるの。」
前川は自身の作品について「文学的なもの、宗教的なものなどが入っていない」、「あくまでも色と形と物質による純粋抽象表現で発言する」と述べています*5 。つまり、前川の作品は物語や具体的な何かを比喩したものではありません。言い換えればそれは「何ものでもないもの」と言えるかもしれません。ところが実は、何ものでもないものは「何ものにも成りうる」可能性を秘めているとも言えるのです。
時に鑑賞者は美術作品の中の「答え」を見つけようとします。それは作品のテーマであったり作家が作品に込めた意図であったり、そこに付随する物語性だったりします。そして、それを知ろうとする行為は美術を鑑賞する上でとても大切なことです。しかし、前川の作品ではそうした答えにあたる物語性ははじめから排除されています。では、先述した筆者や少女の感想は間違っているのでしょうか。一概にそうとも言い切れません。むしろ、純粋な抽象表現として存在する前川作品の前では、鑑賞者はそこから何を受け取り、何を見出すかは自由だといえるでしょう。造形の美しさや想像上の物語など、作品と対峙した鑑賞者の胸の内に浮かび上がったことがその作品の答えとなる。誰かが作り上げたすでにある答えを知るのではなく、鑑賞者が自らの内から答えを見つける。これまで、前川は制作において自由を開拓し続けてきました*6。そうして作られた作品を前にした時、それは鑑賞者にとっても豊かな創造の場と成りうるのです。
*1 #2-2 展示室2 の解説を参照。
*2 一つの素材に異質の素材をはめ込む技法。金属や陶磁器などでよく用いられる。
*3 縫製におけるつまみ縫いによる装飾技法。ピンのように細く取ったタックのこと。
*4 床に広げたカンヴァスなどの支持体に流動性の塗料を流し込んで描く絵画技法。
*5 本展への寄稿文「なぜ、絵を画くのでしょう。」前川 強 より
*6 #3-2 展示室3 の解説を参照。
○作品画像
Work (No. 171205), 2009, 60.0×240.0cm, 綿布、縫い、アクリル
Work (No. 171205), 2009, 60.0×240.0cm, Cotton cloth, sew, acrylic
⇒次回は#5 展示室5
これまで紹介したドンゴロス、麻布、綿布シリーズ以外にも次々と新しい方法を開拓し続ける前川さんの実験的作品群を紹介します!
○企画展
前川強
ドンゴロスは生かされている。
色と形と物質による純粋抽象表現で発言する。
会期:2020年2月8日(土)〜6月28日(日)
延長期間:2020年7月4日(土)~10月4日(日)
※延長期間は変更になる場合があります。