高島北海 / エミール・ガレ ナンシー派

高島北海(1850-1931)は明治政府の役人として森林学を学ぶため、35歳でフランス北部の都市ナンシーの
国立林業専門学校へ派遣され入学した。
もともと絵を描くことが得意な高島であったが、画家としてフランスに行ったわけではなかった。

当時のナンシーではジャポニズムの流行により、日本の芸術に興味をもつ人たちが多くいた。学校で担当教諭から、絵の才能を認められ、多くの人にその技術を披露する機会を設けられ、求められるままに、水墨画を披露するとそれはナンシーの芸術家たちに大きな衝撃を与え一躍注目の人となる。
その中で、特に高島の絵画に惹かれたのが、ガラス工房の経営者、エミール・ガレ(1840-1904)であった。
高島とガレの交流が始まり、その中で伝えられた日本美術の方法論を使って作られた一連のガラス作品は、大きな評判を呼ぶこととなる。
ガレの作品には、余白を活かした表現や墨絵の黒が反映されていて、これらは高島の知識や技術を取り入れたものである。当時、大都市のパリと比べるとデザインで劣っていたナンシーで作られたガラス製品は、本格的な日本美術の表現を取り入れたことで大きな注目を浴びることとなった。

高島自身は、帰国後正式に画家としての道を歩むこととなる。ほとんどの画家がヨーロッパから帰国すると、洋画家として売り出していた当時の風潮にも関わらず、生涯一貫して日本画を描き続ける。