お知らせ

土着的、地方的な美術がなぜ国際的になりうるのか (展覧会に寄せて 本江邦夫氏 寄稿)

現在開催中の展覧会「今、世界で再評価され続けている日本人作家」へ
本江邦夫氏よりテキストをお寄せいただきました。
ぜひ、ご覧ください。

ジョルジョ・モランディ(1890‐1964)は瓶を何本か立てただけの、どこか哲学的で質朴、かつ静謐な写実画で名高い、20世紀イタリアを代表する画家です。日本にもファンは多いと思います。しかし、ボローニャの篤実な画家でしかなかった彼の名が国際的なものになったのは、第二次大戦後ニューヨーク近代美術館(MoMA)が企てた20世紀イタリア美術展(1949)のおかげだったことはあまり知られていません。調査旅行に出かけた学芸スタッフはどこでも、聞き覚えのないその名前をきかされるのでひどく面食らったそうです。美術はもともとローカル(地方的、局所的)なものです。19世紀フランス美術を今や代弁するかのような革命的に「新しい絵画」印象派にしても、「花の都」パリ中心とはいえ、当初はあくまでもローカルな様式でしかなく、地続きの他の国々に伝播するのにかなり時間がかかっています。そのフランスにしても、ドーバー海峡の向こうで精彩を放っていたラファエル前派にはまったく無関心でした。
美術とは、美術家とはその土地、国の文化の頂点を形成しつつ、もともとは土着的なものです。土着的、地方的な美術がなぜ国際的になりうるのか。ここには少なくとも二つの要因が絡んでいると私は考えています。一つは画家を取り囲む美的共同体、早い話が支持層の熱気。もう一つは、生長を誓う一本の木がそのために根を張りめぐらせて芳醇な地下水脈(世界に通じている)に行き当たるかのような、画家の超人的な努力、要するに日々精進です。この二つが伴って、画家は画家として初めて自立するのです。そんなこと当たり前ではないか―必ずそうおっしゃる方がいらっしゃいます。しかし、この当たり前のことができていないのが美的日本の現実です。
昨今のグローバリズムの波に煽られて、しきりと「発信」ということが言われます。しかし、その前に何を発信すべきなのか、真剣な吟味が必要です。今日ここに集ってくださった画家たちはすでに十分な名声をお持ちの方々です。しかし、その真価、独自性について果たして十分な議論、検証がなされてきたのか―この点ははなはだ疑問です。再評価とは、評価されたものをさらに評価し、新たな視点を獲得することです。どうか画家たちの前に虚心にお立ちください。目と心を開いて、作品から響いてくる美の波動を全身に浴びてください。そこから再評価の新たな扉が開かれ、新たな美的生命が始まる―私はそれを期待します。

本江邦夫(多摩美術大学教授)